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80's JAPAN HIP HOP

1970年代後半、小林克也・伊武雅刀・山田邦子らが発表した『邦子のかわい子ブリっ子~バスガイド編~』などが「Walk This Way」や『フラッシュダンス』以前の、オールラウンドに現れたラップ的な表現の代表の一例と思われるが、アメリカのヒップホップシーンを意識して制作されたものかどうかは定かではない。
また、YMOの1981年にりリースされたアルバム『BGM』に『ラップ現象』という曲目で細野晴臣がラップを披露しており、曲名からも分かるように音楽表現としてのラップを表現しているのを意識しているのが分かる。これが、日本のメジャーレーベルにおける明瞭な楽曲の第一号といえる。

マイク、ワンツー!

1981年

ソウルダンスのダンススクール『ファンキージャム』が開校し、エレクトリックブギの基礎となるポップロックを指導していた。そのなかに、マイケル・ジャクソンなどが披露して話題となったムーンウォークやウェーブなどがあった

1983年、映画『フラッシュダンス』が日本で公開され、劇中のわずか数分にヒップホップ四大要素の一つであるブレイクダンス、ロックスティデイクルーがストリートダンスを披露した。ストリートで踊るシーンに使われているジム・キャスター・バンチの曲『It's Just BE GUN』は世界的にミュージシャンから尊敬の念を多く向けられており、日本でも浜松のグループ『アップルパイオールスターズ』のメンバーが影響を受け、早々にブレイクダンスを習得して、日本のアンダーグラウンドのヒップホップを広めるべく活動を行っていた。

また、新宿ツバキハウスにおいて映画『ワイルド・スタイル』出演のクルーが開催したヒップホップ・ショーでは、Grandmixer DSTによるスクラッチのデモンストレーションやレクチャーが行われていた。そして、Dr.Tommy率いるB-5 Crewが東映映画『ビッグマグナム 黒岩先生』のブレイクダンスシーンに登場するなどして、ヒップホップというものがどのようなものなのか広めていった。

1984年

佐野元春が渡米中に制作したアルバム『VISITORS』において、冒頭の「COMPLICATION SHAKEDOWN」を含む数曲にラップを取り入れ、当時の音楽業界に大きな影響を与える。これが日本のメジャーレーベルにおける日本人アーティストとして初のラップといわれており、現在の国内ラップミュージシャンからも、大いに尊敬の念を集め続けている。
また映画『ブレイクダンス』、『ワイルド・ダンス』などにより、ブレイクダンスが日本全国に大流行し、「CRAZY-A」・「TOKYO B BOYS」を筆頭にした原宿の歩行者天国で、現在でも著名なDJ、ダンサー、ラッパーが活動をしていた。さらに新宿や六本木ではTRFのサムや、横浜では村山タカシなどが活動を行い、まさに空前の大ムーブメント・最高のエンターテインメントとして、ラップやDJよりも人気を博し、「踊れる時代」と崇められる時代であったといえる。
そんな中で、モンチ田中がテレビでDJプレイを紹介するなど、マスメディアにおけるDJ活動を活性化させていた他、風見しんごが歌った「涙のtake a chance」でブレイクダンスが採用・使用されたことなども、日本のヒップホップ界では歴史に刻まれるべき事実である。
この当時、「B-Fresh」のMCベルとケークKらが現在で言う同人活動を行い、日本のラップシーンの先駆けとなる。メンバー内にはDJ KRUSHなど現在の日本の代表するアーティストが在籍していたことでも有名であり、同様に活動を行っていたチームに「JAP MC'S」・「Beat Master」・「ZOO」などがある。

1985年

ジョージ・ヒコが米国Tommy Boy Recordsから12インチをリリースした他、モンチ田中を中心としたDJグループ「M.I.D」が結成されるなど、日本のヒップホップシーンの基礎的な部分が更なる成長を進めていった年でもあった。
この年には歌手の「いとうせいこう」がアルバム「業界くん物語」にてラップに挑戦したことで話題になり、同年にリリースされた吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」を広義のラップに含むとする説もあり、同曲のリミックスシングルが桑原茂一プロデュース・DJ KUDOらのグループ「ハードコアボーイズ」名義で制作され、日本発のリミックス作品となる。ところが、制作の関係上なのか何かしらの理由に伴い、発売停止となってしまい、事実関係は闇に葬られてしまう。
また別の動きとして、ビブラトーンズを解散した近田春夫がソロプロジェクト「President BPM」を立ち上げ、12インチ「Masscommunication Breakdown」をリリース。近田の活動は後にビブラストーンとなって結実する。
歩行者天国では「東京B-BOYS」や「B-5 CREW」に代わり、「ミスティックムーバーズ」・「B-ROCK CREW」などが活躍し、アフリカ・バンバータ来日時ではステージ下でブレイクダンスバトルが繰り広げられた。
DJ Honda、DJ KOOらが、リミキサーグループ「The JG's」を結成。このグループは数多くのリミックス作品に関わっただけでなく、オリジナルアルバムも発表した。

1986年

RUN-DMCがエアロ・スミスと共演した「Walk This Way」が世界的に大ヒットした年であり、シーン全体に多大な影響を残す。またエレクトリック・ブガルーズの「ポッピン・ピート」・「スキータ・ラビット」(2006年5月 死去)が大阪に来日してパフォーマンスを披露し、大阪にもヒップホップシーンを形成していくきっかけを与えた。彼らのダンススタイルは後に「ポップ」と呼ばれ、「ポッピング・スタイル」と呼ばれるようになる。そのスタイルを伝授された愛弟子達、ワイルドチェリー・ユキ・シン兄弟などが後にポップを世に広めていくことになる。
一方の東京では「HIP:HOP」というクラブが渋谷にオープンし、DJ YUTAKAがレギュラーでプレイした。さらにラジオ番組「MARUI 24CLUB」がFM横浜で始まるなど、多方面でシーンの広がりを確認することができる年といって問題ないだろう。
また、いとうせいこう&TINNIE PUNX名義のアルバム『建設的』がリリースされたのもこの年であり、さらに同じく同年に開催されたシリーズ・イベント「東京ソイソース」が始まり、「トマトス」・「S-KEN」などの4バンドが出演しする。この時、ライブとライブの間にDJが入るという初めての試みが行われ、いとうせいこう&TINNIE PUNX、ランキンタクシーなどが出演、会場の雰囲気を高める役割を担った。

1989年

『ニュージャックスウィング』というダンスが大流行した年であり、これまでのブレイクダンスとは違い、「ロジャーラビット」・「ランニングマン」・「ロボコップ」という名前の付いたステップのダンスが話題になる。
同年にダンス番組「DADA L.M.D」が始まり、初代メンバーには「タケダ」・「ハルク」・「KAN」など、そして1990年代のニュースクールダンスをロサンゼルスから持ち帰り、毎週テレビで披露していた「KAZU」などがいた。またそんな「KAZU」が日本人として初めて「ソウル・トレイン」に参加、ジェフリー・ダニエルのバックダンサーを務めた。やがて当時の人気ダンスユニットになる「ZOO」の初期メンバーにも抜擢され、ニュースクールの先駆け的存在になる。これらの活動は「彼がいなければ現在のDJ KEN-BO、DJ WATARAIなどはいなかった」と言われるほど圧倒的だったといえる。
一方、いとうせいこうがヤン冨田のプロデュースによるアルバム「MESS/AGE」を世に放ち、日本語によるオリジナルラップや音楽スタイルがMCUやスチャダラパーなど、後に登場するアーティストに否定できないほどの影響力を示すことになる。

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