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00's JAPAN HIP HOP

名古屋の「M.O.S.A.D.」・北海道の「THA BLUE HERB」・九州の「餓鬼レンジャー」など地方勢のリリースが相次いだ。それぞれが地元愛にあふれた内容となっており、日本語ラップは東京だけのものではないということをアピールした。
ダンス番組は「少年チャンプル」・「スーパーチャンプル」などが生まれ、「ダンス甲子園」も2006年に復活した。また、「流派-R」や「Suger Hill Street」など、ヒップホップに焦点を当てた番組も多く出ている。
90年代の停滞が嘘のように再度シーンは盛り上がりを見せる年代と言える。
比較しても、その隆起は誰が見ても分かるくらいにはっきりとしており、それだけシーン最先端で活躍しているアーティスト達の芸術性が大衆に多く受け入れられやすいものとなっていったと言える。
流行に敏感な中高生を筆頭に、20代から30代、さらには40代以上の年代にも親しみやすい・または感慨深い楽曲も多く誕生した年といえる。
90年代にはそれほど活躍を広げられなかった「ケツメイシ」は2005年2月に発売した「さくら」でグループ初のオリコン1位獲得、三月の卒業シーズンではこの時期に同曲がよく流れている影響もあってか、現在でも春を代表する名曲の一つとして、幅広く曲のクオリティの高さが評価されている。
その他にも90年代中期から後半にかけて結成された「m-flo」・「RIP SLYME」・「HOME MADE 家族」など、若者が共感しやすい歌詞作り、それに合わせて盛り上がりを見せられる楽曲のテンポなどが大いに受け、シーンの盛り上げに一役買い続けていると言って良いだろう。

マイク、ワンツー!

2000年

MC8名からなる「NITRO MICROPHONE UNDERGROUND」が1stアルバムをリリースする。このグループの力量はさることながら、マイクリレーによって力を発揮する人材が集合し、グループ名を関した曲「NITRO MICROPHONE UNDERGROUND」は日本のヒップホップ史に残る作品となる。このアルバムをきっかけに、ソロとしても次々にメジャーデビューを果たしていくこととなる。彼らはかつてさんピンCAMPで日本のヒップホップ界の重鎮「MURO」のステージの後ろにいたような、いわゆる「日本語でいかにラップをするか」と苦心していた世代を見て育った、いわば第二世代であり、これを機に次世代のMC達が続々と頭角を見せはじめるようになる。
「DS455」が1stアルバム「BAYSIDE RIDAZ」をリリース、同年にメンバー兼プロデューサーも務める、「DJ PMX」が手がけた「OZROSAURUS」の「AREA AREA」がヒットしたこともあり、それまで日本ではあまり見ることのなかった「Gファンク」や「ウエスト・コースト・スタイル」と呼ばれるような音楽性が注目を浴びることとなる。
YOU THE ROCK主催のイベント「HIP HOP ROYAL 2000」が開催され、「雷家族」・「RHYMESTER」・「K-DUB SHINE」・「ZEEBRA」・「スチャダラパー」など多くの、新旧問わないHIP HOPアーティストが日比谷野外音楽堂へと集結した。

2001年

「KICK THE CAN CREW」・「RIP SLYME」がメジャーデビューを果たし、日本のメジャーシーンにおけるヒップホップの浸透にさらに大きく貢献することとなる。
横浜の「OZROSAURUS」が1stアルバム『ROLLIN'045』を発表し、楽曲の中で披露した高いスキルはヒップホップカルチャーの一つであるウェッサイなど問わず日本語ラップ史のおいて重要なアルバムの一つとして扱われている。
アルバムはロングセラーを記録して、8万枚を超える売上を記録した。
2000年にインディーズよりデビューしていた女性ラッパー「Miss Monday」がメジャーデビューを果たし、男性ラッパーと肩を並べも遜色のないライブパフォーマンスで女性ラッパーの地位向上に貢献する働きを見せる。
余談であるが、この年よりインディーズにて活動を続けていた「ケツメイシ」がメジャーデビューシングル『ファミリア』にて、世に現れ始める。

2002年

活動を休止していたキングギドラが満を辞して活動再開を宣言し、ハードコアラップグループでは異例のヒットを記録する。復活後、アルバム「最終兵器」以外の作品全てがトップテンチャート入りを果たすなどのめざましい躍進を見せ、社会現象を巻き起こすほどにその存在を世間にアピールした。
特にアルバム収録曲である『公開処刑 feat.BOY-KEN』におけるZEEBRAの降谷建志に対するあからさまな貶し、K DUB SHINEのRIP SLYME、KICK THE CAN CREWに対する暗喩な貶しはネット上などで大きな盛り上がりを見せるほど、話題を巻き起こした。この曲は日本のヒップホップシーンにおいて最も有名な貶し歌、『ディス・ソング』の一つとして数えられている。
Def Jam Japanと契約を交わしたS-WORDの『KROSS OVA-斬-』も高い売上を記録し、同レーベルから発売されたDABOの『D.A.B.O』もヒットを記録した。DABOやS-WORDら、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDと深い関わりを持つグループ「THINK TANK」が1st フルアルバム『BLACK SMOKER』を発表する。だ部やレゲエを盛り込んだ音楽性・K-BOMBらの独特なヴォーカル・ワークにより、その異能集団ぶりを示して、名を広めることになる。
この年、ケツメイシの記念すべき4枚目のアルバム「トモダチ」が初のオリコンランキング5位にランクイン、初のトップテンチャートに名を連ねることになる。また、同年4月にリリースされた1stアルバム「ケツノポリス2」ではアルバムランキング1位を獲得する。この年より発売された楽曲から2010年に発売された20thシングル「闘え! サラリーマン」までオリコントップテンチャートにランクインし続け、アルバムに至っては現在まで5位以上にランクインし、内1位獲得を1stアルバムを含めた5回もランクインすることになる。
また「RIP SLYME」が2ndアルバム『TOKYO CLASSIC』発売、同日発売されていた「SMAP」という大物グループがいながらオリコン初登場ランキング1位を獲得する。この発売を記念して、購入者を先着で日本武道館での特別ライヴに無料招待している。

2003年

ヒット曲『DA・YO・NE』で、90年代のヒップホップシーンに貢献した「EAST END」がこの年、活動を再開する。直後にリリースされたアルバム『Beginning of the Endless』はヒップホップコミュニティ「FUNKY GRAMMAR UNIT」全参加による傑作となる。
キングギドラのリーダーでもある「K DUB SHINE」の「ATOMIC BOMB PRODUCTIONS」が本格的に活動を始める。
この頃、アンダーグラウンドが活性化し、雑誌『blast』内にあるコーナー『HOMEBREWER'S』から東京に限らず、大阪・福岡などの各地方にいる多くの優れたアーティストが紹介されることになる。特に、「KREVA」・「RHYMESTER」共に共演する韻踏会組合・また「妄想続」や「MSC」がアルバムをリリースするなど、ヒップホップシーンの活躍は止まる勢いを知らず走り始める。
表舞台だけでなく、アンダーグラウンド・ヒップホップムーブメントの一角を担う「降神」が自主制作CDアルバム『降神』をリリース。新人で、かつ自主制作CDとしては異例中の異例となる1000枚を売上、話題となる。特にメンバーの志人は「THA BLUE HERB」の「ILL-BOSSTINO」・「Shing02」と並ぶ天才MCとして注目される。
この年、「RIP SLYME」がヒップホップシーンにおいて史上初となる野外5万人LIVE「SUMMER MADNESS '03」を国営昭和記念公園で行う。なお、同公演のチケットは即日完売したため、後にチケットを追加販売、同会場に合計5万2000人を動員するという大反響を呼んだ。
近年活動が目立ち始めてきたヒップホップグループの活躍はこれだけに留まることはなかった。

2004年

伝説的ラップグループ「雷」が『KAMINARI-KAZOKU,』として、結成から約10年にしてついにアルバムを制作、ミニアルバム『大災害』・続いてメジャー1stアルバム『330~more answer no question』を発表する。
同年夏、「黒い集団」とも呼ばれている8MCのビッグユニット「NITRO MICROPHONE UNDERGROUND」が再指導を果たし、キングギドラ動揺、異例なヒットを叩き出す。
また加藤ミリヤのシングル『Never let go』の同メインの曲となる『夜空』のリミックスでは「BUDDHA BRAND」の三人が参加する。
「K DUB SHINE」の3rdアルバム『理由』収録曲『来たぜ』の歌詞をきっかけにインターネット上を通してDEV LARGEとの罵倒騒動が起きた。そもそも事の発端として、『BUDDHA BRAND』の『DEV LARGE』と思われる人物がとあるサイトでアップされた『ULTIMATE LOVE SONG』にて「K DUB SHINE」を貶していることから始まる。
以前から「K DUB SHINE」達が英語を多用する、バイリンガル・ラップを批判していたことへの反発が大きなきっかけとなっていた。その後、ラジオ番組で本人が掛けていたと本人が認めたため、「K DUB SHINE」がユーザーから、アンサーソングを出せと言う要求・要望があったこともあり、お互いにそれぞれに当てたアンサーソングを発表する。
騒動はここで一旦終了するものの、お互いの遺恨は残したまま険悪な仲は続いていると言う。
この年「KICK THE CAN CREW」を発表、その後はメンバーそれぞれがソロ活動に入る。その他に「妄想族」も活動休止を発表し、ソロ活動に専念し始めた。
名古屋の代表格であった「M.O.S.A.D.」を率いていたMC「TOKONA-X」が26歳という若さで逝去してしまう。彼の死については様々な憶測を呼び、一つはコカインのオーバードースによるもの、二つ目はDJ MOTOを以前シングルで批判したため、側近であるギャングの怒りを買って、殺害されたと言う説もあるという。公式発表によれば、熱中症に伴う体力低下による心停止とされているが、詳しい事実は世間に知られることはないだろう。
同年11月27日、「RIP SLYME」初のアリーナツアー「MASTERPIECE TOUR 2004」がスターし、大阪城ホールを皮切りに名古屋レインボーホール、日本武道館など全国7都市11公演、述べ10万3000人を動員。RIP史上最大のツアーとなっている。

2005年

この頃を境に日本のシーンはメインストリームとアンダーグラウンドシーンが確実に分けられ始め、転換期にさしかかっていた。アンダーなシーンで活躍していた人物達がメインストリームへと乗り換えていく動きが活発化し、それに平行してアンダーグラウンドシーンでのムーブメントも活性化を始めた。主に乗り換えていく側にいたのは「RIP SLYME」や「ZEEBRA」など、90年代後半からその活動が徐々に増え始めたグループが多くである。実力あるアーティストが増加しシーンの底上げをするなど、新たな動きが見られ始めた年でもある。「MSC」・降神の「Temple ats」・「Da.Me.Records」・SEEDA擁する「SCARS勢」、「black smoker Records」、関西では「韻踏合組合」・「R-RATED RECORDS」などが、今も引続きその一端を形成している。

また1997年から代々木公園で毎年開催されている「B BOY PARK」、2002年大会MCバトルで優勝を果たした「MSC」の「漢a.k.a.GAMI」の主催で、全国規模で行われたフリースタイル・バトル大会『ULTIMATE MC BATTLE』が開始された。優勝は『カルデラビスタ』がその座に着き、後に大会の模様を収めたDVDも発売される。この大会を機にアンダーグラウンドレベルでフリースタイルをするMCが急増するほどの影響力を見せた。

メインストリームではケツメイシが同年2月16日に発売した11thシングル『さくら』を発表、ケツメイシ初シングルCDランキング1位を獲得した。ノンタイアップながら初動売上21万枚を記録し、卒業シーズン目の前ということもあり、その年の中高大の学校では同曲が卒業ソングとして多く利用されることになる。
そのさわやかなテイストと歌詞との相性でこの年以降でも春をテーマにした名曲として今でも愛され続けている、ケツメイシの中では最大の売上と話題を広げた曲である。
同曲において、NHKから『紅白歌合戦』の出場依頼があったものの、辞退をしてしまう。もしこの年の紅白に彼らが出演していた場合、勝敗は変わらないものの瞬間最高視聴率を狙えるほどの位置にいたはずだろう。多くのファンが生放送での『さくら』披露を楽しみにしていたに違いないだろうが、それでも彼らの曲が高く評価されていることに変わりはない。

また、「RIP SLYME」はこの年の『ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2005』に出演、初日のオオトリを務めることになる。2日目にMr. Children・三日目に同年から三年後に活動を無期限休止となるサザンオールスターズがそれぞれトリを務める豪華なラインナップの中、彼らの活躍が評価された結果と言えるだろう。
転換期と言われるほどに、メインストリームとアンダーグラウンドで多くのヒップホップアーティスト達の活躍が見えた一年であったことがよく分かる。

スラングを学ぼう!